第38回アジア太平洋経済研究会海外視察:ギリシャ視察

令和元年10月1日(火)~10月8日(火)

第38回アジア太平洋経済研究会海外視察、今年はギリシャを視察いたしました。

ギリシャ視察報告 (野口 和久)


 元東京都議会議員の立石晴康さんが主宰する「アジア太平洋経済研究会」が2019年10月1日(火)から同8日(火)まで行った「ギリシャ視察」(立石団長以下22人)に同行した。 ギリシャは、地中海の東部に位置し、バルカン半島とペロポネソス半島からなる本土と、エーゲ海に点在する大小3000もの島々からなる。 紀元前3000年頃から文明が繁栄し、後のヨーロッパ文化の礎を築いた。 神話の世界が息づく遺跡が数多く残されている。 来年は東京オリンピック、オリンピック発祥の地のオリンピア遺跡やアテネのシンボル・アクロポリスの丘のパルテノン神殿などを見学、エーゲ海ツアーも体験した。 青い空と紺碧の美しい風景、「太陽の国」と呼ばれるギリシャ視察をまとめた。



[はじめに]

 <ヨーロッパ文明揺籃の地である古代ギリシャの輝きは、神話の世界そのままに、人類史の栄光として今も憧憬の地であり続けている。 一方で現在のギリシャは、経済危機にあえぐバルカンの一小国であり、EUの劣等生だ。 オスマン帝国からの独立後、ギリシャ国民は、偉大すぎる過去に囚われると同時に、列強の思惑に翻弄されてきた。 この“辺境の地”の数奇な歴史を掘り起こすことで、彼の国の今が浮かび上がる>


 この文章は、『物語 近現代ギリシャの歴史』(村田奈々子著、中公新書)の一節。 ギリシャへの旅は、この1冊の本と1本の映画が“道案内”をしてくれた。 映画は『その男ゾルバ』(マイケル・カコヤニス監督、1964年制作)で、名優、アンソニー・クインが演じたゾルバはギリシャ人にとってどんな存在なのか。 2つの道案内を心に持ちながらギリシャへと向かった。


[10月1日(火)]

 1日午前8時30分、東京・羽田空港国際線ターミナルに集合。 チエックインのあとVIPルームで結団式、「楽しい旅にしましょう」という立石団長の挨拶、旅行会社の説明、参加者の自己紹介があり、この視察団名物となった団長夫人手作りの五目御飯がふるまわれた。 午前11時15分発の全日空機で独フランクフルトへ。 約12時間の飛行で午後4時30分(以下、現地時間)、フランクフルト空港に到着。 アテネ便への乗り換えまで4時間近くあり、一部の男子陣は、フランクフルトソーセージを肴にビールで乾杯、女性陣のなかには、ドイツ土産を買う姿もあった。


 同8時発のルフトハンザ機でギリシャ・アテネへ。 約3時間のフライトで、午前零時過ぎ、アテネ空港に到着。専用バスで市内のホテルへ向かった。 バスの車内で、ガイドが「おはようは、カリメーラ、こんばんわは、カリスペラといいます。 気温は日中は30度、明日は28度前後という予報です。 治安は、スリの被害が多く、気をつけて下さい」と説明。 通算15時間のフライトでメンバーは、いささか「お疲れ気味」の顔だった。

  

 

  

[10月2日(水)]

 朝食は午前8時。その前に、ホテル周辺を散策したが、掃除の行き届かない道路、書きなぐったビルの落書きが目に付いた。 「青い空と紺碧の美しい国」というイメージには遠かった。 この日は、在ギリシャ日本大使館を表敬訪問したあと、コリント運河の視察。

  

 案内ガイドは、園田富喜子さん。 長崎県出身で、長崎に寄航したギリシャの船員と文通による交際を経て18歳で結婚、ギリシャに住んで43年。 「ギリシャの面積は日本の3分の1、山岳地帯が7割、牧畜と農業、そして観光が主な産業。 2015年の経済危機から生活は向上していない」と車中でガイド第一声。(以下の「」は園田さんの説明/一部を除く)


 日本大使館では清水康弘大使が、ギリシャの歴史、最近の国情、日本との関係などについて説明。 「地政学的重要性が高まっている」という話が参考になった。 「ギリシャはアジアと欧州の間にあり、エーゲ海は全て自分の海。 中国は欧州の玄関として重視、ピレウス湾運営権取得など投資に注力している。 クレタ島に基地を持つアメリカは、安全保障、エネルギー輸送の観点から関係強化している」

  

 コリントは、アテネから専用バスで1時間半。ここで昼食。 ギリシャ名物のメゼ(数種類の小料理)を食す。 チーズコロッケ、ロールキャベツ、豆料理、ポテトフライ、ミートボールが中皿で出てきて、分けながら食べた。 「おばんざい」のような料理だったが、ギリシャ料理はこんなものか、が第一印象。

  

 コリント運河は、車中から見たが、絶壁の間を船が通るという変った運河。 長さは6343m、絶壁の一番高いところは79m。現在通る船は、観光船だという。

  

 なぜ、これが遺跡なのか?「コリント運河は、紀元前7世紀頃から構想があったとされています。 紀元前3世紀頃、開通は出来ませんでしたが、工事を行った記録があります。 運河建設は、古代人から伝わる夢だったのです」

  

 コリントから、オリンピック発祥の地とされるペロポネソス半島の西に位置するオリンピアへ向かう。 ホテルに到着後、ここで夕食。

  

 

  

[10月3日(木)]

 オリンピアは、小さな田舎町。周りを小高い山に囲まれ、もの静かな落ち着いた家並みが続く。 南の町外れに古代遺跡が発見された。 ホテルで朝食の後、午前9時、専用バスで世界遺産の古代オリンピックの聖地、オリンピア遺跡視察へ。


 今でもオリンピックの聖火が採火される「ヘラ神殿」は、様々な遺跡のなかにあった。 「ゼウスの妃、ヘラを祀った神殿跡で、紀元前7世紀のもの。 ギリシァ最古です。考古学博物館に納められている有名な『ヘルメス像』が発掘されたのもヘラ神殿です」


 周囲には、紀元前4世紀、マケドニア王が戦争勝利を記念した「フィリペイオン」や、紀元前338年、全ギリシァを統一した記念の「プリタニオン」、 古代の大彫刻家フェイディアスの傑作「ゼウス像」が制作された彼の仕事場、アテネのパルテノン神殿に匹敵する神殿といわれる「ゼウス神殿」などがあった。


 遺跡内の東端には、古代オリンピック競技が行われていたスタジアム。 紀元前4世紀中ごろに造られたもので、トラックの幅は30㍍、長さが192㍍。 残っている白い石で埋め込まれたスタートラインで写真を撮るメンバーが多くあった。


 「古代オリンピックは、自由都市の男性だけが参加でき、競技を見学するのも男性しか許されていませんでした。 また、不正防止などを理由に、全員が裸で参加するのがルールで、女性は見ることが禁止されていました。 その様子は、モザイク画に残されています」


 オリンピア考古学博物館へ。ギリシャでも重要な博物館の一つ。 19~20世紀にかけてドイツ調査団が発掘した数々の彫刻や陶器類が時代別に並ぶ。 彫刻は、どれも豊かな表情で臨場感あふれていた。全てパロス島の大理石が使われた。


 彫刻の中でも圧倒されたのは、2つの彫像。プラクシテレス作の「ヘルメス像」は、この像だけの部屋があり、気品が周囲を覆っていた。 パイオニオス作「ニケの像」は、女神のニケが地上に降り立つ瞬間をとらえ、今にも動き出しそうな躍動感が伝わってきた。


 昼食は、近くのレストラン。そこへ向かおうとしたとき、突然、空が暗くなり雷と大雨。雷を怖がった犬がレストランの奥へ逃げ込む。 メンバー全員がレストランに入ってまもなく、雨がやんだ。「我々はついている」と安堵しながら食事。


 昼食後、オリンピア市内で買い物。Oさんは、1軒の土産物店の店主と身振り手振りで会話。 「店主の父親が1964年の東京五輪でギリシャ代表団の選手村村長だったのがわかって驚いた。 当時の写真も見せてもらった」と社交上手を発揮。


 午後3時過ぎ、ホテルへ。夕食まで時間があるので男性陣有志は昼からYサンの部屋で酒宴。 部屋へ一旦戻ったNさんは、そのまま熟睡。夕食の電話で起こされた際、「モーニングコールだと思った」と寝ぼけていた。 ギリシャ到着以来、肉料理が少なく、夕食後、「肉が食べたい」とスターキハウスに出かけた男性陣も。


 


[10月4日(金)]

 オリンピアのホテルで朝食後、専用バスで240キロ先のデルフェに向かう。 視察するデルフィの遺跡は、アポロの神託が行われていた聖域。 古代ギリシャではここが「大地のヘソ(世界の中心)」と信じられていた。


 デルフェに向かう途中、再び、大雨と強風に見舞われた。バスの車中からみると、外は真っ暗で台風の中をバスは進むという感じ。 昼食で立ち寄ったレストランに着くと雨もやんだ。ここでも、「我々はついていた」。


 昼食は、道路沿いのレストラン。ギリシャ名物だという「ムサカ」が出された。 ナスなど野菜とミートソースとホワイトソースを重ね焼きした料理。 「日本で食べるラザニアのようだ」と好評で、酒豪のTさん、最年長のTさんも完食。


 デルフェは、ギリシャ中部の山間部にあり、山麓にオリーブ畑が広がる。この風景は「オリーブの海」と呼ばれる。 遺跡の中核は、紀元前からデルフィが廃都の381年まで神託が行われていたアポロ神殿。今は数本の列柱と土台を残すだけ。


 「アポロ神殿は、巫女が神託を受けたと思われる場所で、当時の人々にとってここが世界の中心でした。 宮殿の地下からは『大地のヘソ』と呼ばれる石が発見されました。この石は、デルフィ博物館に展示されています。」


 博物館を見学した後、アポロ神殿などの遺跡を見学。標高700㍍で段丘になっておりメンバー数人は博物館で待機。 年配格のKさんは見学の最後に脱水症状を起こして一時ダウンするという一幕もあった。


「デルフェは、人気のある観光地ですが、派手さがない落ち着いた遺跡です。 アポロ神殿のそばにある岩盤を掘り抜いて造られた野外劇場は、5,000人を収容できる規模を誇ります」


 見学を終えてデルフェのホテルへ。高台にある瀟洒なホテルで、レストランからの望める景色も素晴らしく、料理もまずまず。 「これまでに泊まったホテルでは一番」とメンバーは眺望も食事も満足したようだ。


 


[10月5日(土)]

 朝食の後、午前9時、専用バスでアテネへ。約3時間の旅で、途中でアラフォバの街を通る。 バスがようやく通ることができる狭い道路、冬はスキー客で賑わう。遠くにデルフェの街が見える。 山麓に赤い屋根に白い家が映える風景をみんながカメラに収めた。


 アテネに向かう車中で、「アテネ市内はアメリカの国防長官(?)が来たことに抗議するデモで一部が封鎖され、時間通り見学できないかもしれません」とアナウンス。 見学前に、市内のレストランで昼食。


 レストランは、古代の市場である「アゴラ」と指呼の間にあり、遠くにパルテノン神殿が眺められる。 食事は、「ゲミスタ」。トマトやピーマンのなかに米や野菜などを詰めて焼く料理。 食事には、毎回、ビールとワインを飲むが、このゲミスタは、ひと際アルコールに合った。


 一部閉鎖された道路を迂回してアクロポリスへ向かった。アテネで最も有名な観光地で、世界遺産に登録されている。 アクロポリスは『上の都市』の意味で、古代アテネ人が神々の住む場所として神殿を捧げた場所。


 「パルテノン宮殿は、アテネの守護神であるアテナ女神を祀ったドーリス様式の最高峰で、紀元前438年ごろ建てられました。 高さ約70m、全周約800mの石灰岩の丘の上にあります」。“山登り”に自信のないメンバーの一部が見学を断念したのは残念。


 写真や映像でしか見たことのない「パルテノン神殿」や屋根を支える6人の少女像が有名な「エレクティオン神殿」が目の前にあった。 大きく荘厳なたたずまいに、みんな感激、いや感動を覚え、写真を撮りまくっていた。


 そのまま、アクロポリスの南東にあるアテネ国立考古学博物館へ。ギリシャ全土から出土した一級の彫刻や陶器を展示。 古代ギリシャの彫刻のなかには、上半身は女性で下半身が鳥という不可思議な彫刻もあった。


 オリンピアの博物館で見た「ヘルメス像」のような男性の全裸の立像も数多く展示されていた。 これを見た女性陣の間からは「みんなお尻がきれいね」、「うちのお父さんのほうが大きいわ」なんて声が聞こえてきた。


 考古学博物館見学の最中、日本ではラグビーワールドカップの日本・サモア戦が行われていた。 YさんやHさんらがスマホで試合の様子をチェック。日本が38対19で勝利したのがわかって、みんな静かに喜んだ。


 ホテルに戻って夕食には、現地在住の安藤ゆう子さんをゲストとして招いた。 「ギリシャに魅かれてやってきて46年になります。結婚して2人の娘がいますが、ひとりはアメリカ、もうひとりはイギリスで生活しています。 ギリシャ人はバカンスを楽しみ、別荘を持っている人も多い」などとスピーチ。


 


[10月6日(日)]

 午前6時朝食、7時ホテル出発で「エーゲ海1日クルーズ」に出かけた。 サロニコス湾に浮かぶイドラ島・ポロス島・エギナ島を1日で周遊する。 8時過ぎ、船(600人乗り)はアテネ郊外の港を出発。


 憧れのエーゲ海は、曇天のせいか海の色はブルーというよりダークブルー。 しかし、船から見えるオレンジ色の屋根の白い家の並ぶ島の姿にエーゲ海らしさも。 船の中では、音楽演奏がありアメリカ人らしい老夫婦の踊る姿もあった。


 11時過ぎ、イドラ島に到着。透明度の高い海があり、車やバイクの乗り入れが禁止されていた。 港周辺にある土産店をのぞいて民芸品などを買い物。12時55分出発で、ポロス島へ向かう。


 ポロス島に向かうころ、天候も回復、晴れ間が見えた。「青い空と紺碧の海」のエーゲ海がよみがえった。 ポロス島は、オリーブや緑濃い松の木に囲まれる小さな島だった。


 船内で昼食。バイキングランチでグリークサラダ、ドルマダーキア、オーブンチキン、魚オリーブオイル焼き、ミックスピラフ、パスタ、デザートが並んだ。 食後に、Aさんが大事なバッグを紛失、慌てたが、Yさんの機転で無事発見。


 ポロス島を出発して午後4時ごろ、エギナ島に到着。オプションツアー (1人28ユーロ)で、神殿や遺跡、修道院などを見て回った。 ピスタチオの特産地としても有名。ピスタチオアイスを食べたり、ピスタチオの袋詰めを買っていた。


 6時過ぎ、船はアテネに向かって出発。船内は、音楽と踊りで大盛り上がり。 民俗音楽に合わせた踊りの輪には、女性陣からMさん、Yさんらが加わり、スペインから来た愛くるしい女の子らと舞った。 民族踊りの指導では、男性陣からYさんが飛び入り、美形のギリシャ女性と戯れていた。


 午後7時過ぎ、アテネに戻り、夕食はパルテノン宮殿の見えるレストラン。 窓際の席に座ると、遠くに夜空に輝く宮殿がくっきり見ることができた。 食事もフルコースの豪華版で、ワインも奮発して高級なものに。ギリシャ最後の夜を景色と食事とワインで満喫した。


 


[10月7日(月)]

 午前3時、モーニングコール、4時出発で、フランクフルトへ。 ほぼ一日ある乗り継ぎ時間を使ってフランクフルトを視察。 ゲーテハウスとゲーテ博物館を見学。ゲーテは、小説家のみならず劇作家、法律家、自然科学者としても活躍。 1749年、フランクフルトに生まれた。ゲーテハウスは、多感な少年時代を過ごした家。


 第2次世界大戦で破壊されたが、疎開していた調度品はそのままに、忠実に復元されている。 1階にはキッチンのほか、「青の間」と呼ばれている食堂、「黄色の間」と呼ばれている応接室がある。


 2階の「北京の間」と呼ばれている部屋は、他の部屋よりも一段と豪華な装飾がされている。 家族の祝い事や高貴な客人を迎える際に使用されていた。 3階の書斎へ続く部屋には、ゲーテの父が収集した地元の画家の作品がずらり。


 書斎には2000冊もの学術書がならぶ。幼いゲーテはこの部屋で父から教育を受けた。 4階にある「詩人の間」でゲーテは「ファウスト」初稿、「若きヴェルテルの悩み」を執筆。 愛用の机の上には、ゲーテとロッテのシルエットがあった。


 「青年期までを家族とこの家で過ごしたゲーテは、16歳の時に法学を勉強するためライプチヒへと旅立ちました。 法律を勉強する事になったのは、彼の将来を有望視した父の意向で、本人は文学をやりたかったそうです」と案内ガイド。


 ゲーテハウスを見学した後、高層ビルが立ち並ぶフランクフルトにあって今なお昔の姿をとどめているレーマー広場へ。 中世の時代、神聖ローマ帝国皇帝の選挙や戴冠式といった重要な儀式が行われたという。


 ドイツらしく可愛らしい木組みの建物が並ぶ様子はメルヘンの世界。 足を踏み入れたら、急にメルヘンワールドに飛び込んだかのような感覚を味わった。 市内のドイツフェストランで昼食。ドイツ料理とドイツビールで最後の乾杯。


 ところで、視察団でしばしば、“事件”を起こすKさん。 今回は、Hさん、女性のMさんらとともに足元の危ないメンバーの手助けに尽力、みんなから尊敬の眼差しを浴びた。 ところが、旅の最後も最後…。


 フランクフルト空港でバッグを紛失。幸い、全日空の現地職員、それも美形の女性が見つけて届けてくれた。 Kさんは、立石団長夫人に頼んで入手した大量の2020東京五輪のバッジを女子職員に。 「下心あり」と怪しむ声も。そんなこんなも、あったが、午後8時45分発の全日空機に乗って帰国の途に。


 


[10月8日(火)]

 8日間にわたる旅を終えて午後3時30分、東京・羽田空港に到着、みな表情には疲れが見えた。 でも、よ~く見ると、青い空と紺碧の美しい風景、「太陽の国」、ゾルバの国を十二分に楽しんできたという満ち足りた顔をしていた。


[まとめ]

 映画「その男ゾルバ」のあらすじ。英国人作家のバジルはギリシャ・クレタ島に赴き、ゾルバに会う。 ゾルバは楽天的で、見るからに頑強で、魂もまた壮健だった。ゾルバは、ホテルの元高級娼婦という女主人と親しくなる。 バジルは、炭鉱の監督の息子に迫られている美しい未亡人と恋仲に。ゾルバは、バジルを応援、監督ら地元民と対立。 息子は振られたショックで自殺、未亡人は、監督に刺殺され、女主人も病気で死ぬ。 そして、ゾルバが創案した炭鉱ケーブルが竣工式の当日に壊れる。 ラストシーンは、ゾルバがへこたれず、ギリシァの力強いダンスを踊る。未亡人の死の衝撃冷めやらぬバジルも、感激して共に踊り出す


 ガイドの園田さんは「映画公開当初は、ギリシャの恥をさらしたと不評でしたが、アカデミー賞を受賞してヒットすると世界中から“ゾルバの舞台を見たい”と観光客が押し寄せ、国内外でゾルバは人気者になりました。 (日本の『坊ちゃん』ですか?)いや、坊ちゃんと山嵐を合わせたような人物かな」と話した。


 「その男ゾルバ」のテーマ音楽もヒットした。訪れたアテネ市内の広場やエーゲ海1日クルーズの船内でも、ギターなどで演奏していた。 ゾルバは、ギリシャ国民の間にすっかり溶け込んでいるように思えた。


 原作は、ギリシァの作家、カザンザキスの長編小説(1947年刊)。 ゾルバは、ゾルバスという実在の人物。執筆当時、ギリシャはドイツ軍に占領されていた。 『物語 近現代ギリシャの歴史』によると、<カザンザキスは実在のゾルバスから「不幸なことや辛いこと、そして先が見えない不安を、いかに自尊心に変えるのか」を学んだと述べている>


 同著の著者、村田奈々子は<ゾルバスが体現したギリシャ精神は、占領下のギリシャ人の多くが共有していた。 彼らは、自尊心を失うことなく、ギリシャ人の自由、そして、ギリシャ国家の解放のために、敵に立ち向かったのである>。 自尊心、自由、解放…ゾルバが愛される理由が少しわかった気がした。


 最後に、「ヨーロッパ文明揺籃の地である古代ギリシャ」に触れたい。 古代ギリシャを代表する哲学者はソクラテス、プラトン、アリストテレスら。 アリストテレスとプラトンは、彼らの考えうる唯一の国家、ポリス像を考察、構築した。


 村田は、こう述べる。<アリステレスやプラトンら古代ギリシャ人の政治哲学思想は、私たち日本人の生きる現代の政治や社会の成り立ちとも無縁ではない。 ギリシャの過去を見つめるとき、2人が古代アテネの民主政を批判的に観察することで導き出した政治哲学は、今日の民主主義の現状と将来を考える場合、私たちが常に立ち返っていく場である>


 そして、こうまとめる。 <その文脈で、ギリシャの過去を見つめる時、英国の詩人、パーシー・シェリーのという詩句も、説得力を持ち得る> シャリーの詩句はこうだ。「われわれは、すべてギリシャ人である」

2018年アジア太平洋経済研究会

2017年アジア太平洋経済研究会