*第15回都民塾のご報告

2014年2月21日(金)中央区築地本願寺講堂

第15回都民塾が、平成26年2月21日(金)午後7時から、東京・中央区の築地本願寺2階講堂で、鈴木純子先生(伊能忠敬研究会 代表理事)をお迎えして、「江戸八丁堀亀島町『地図御用所』と伊能図」について、講演して頂いた。鈴木さんは伊能忠敬の人物像から語り出した。
 「伊能忠敬は、戦前は立身出世の人物として取り上げられたが、現在は、人生50年の時代に55歳から勉強して正確な日本地図をつくった『人生、二山を生きた』人物として人気が高い。あきらめない不屈の精神は安倍首相が「成長戦略」発表の際、伊能忠敬の生き方を紹介しました。
 (そして、「人生、二山を生きた」忠敬の第一ステージに話が移った)忠敬は、延亨2年(1745)に下総国小関村(現千葉県九十九里町)の小関家に生まれた。17歳のとき、下総国佐原村(現千葉県香取市)に地主である伊能家に婿養子に行きました。
 忠敬は、商才もあって酒造業、運輸、米流通、金融などで資産をつくりました。村政への貢献で名字帯刀を許され、その傍ら、暦学の研究を志しました。45歳で隠居願いを出すが慰留される。49歳の再度の願いが通り、天文・暦学勉強のため江戸へ向かいました。
 (第二ステージ)寛政7年(1795)、深川黒江町(江東区門前仲町)に住み、幕府天文方、高橋至時に師事。地球の大きさを知るため黒江町と浅草司天台間で測定するが、距離が短く誤差が生じたこともあって、寛政12年(1800)、蝦夷地(北海道)で測量を行いました。
 文化13年(1816)まで9次にわたり全国測量を行う。足かけ17年、4万キロ、地球1周歩きました。最終の地図を幕府に上程したのは、文政4年(1821)。忠敬は文政元年(1818)に死去している。
 (続いて、伊能図を紹介)伊能図は200年前、忠敬と弟子たちが実測した日本地図で、統一的な測量による初の全国地図でした。沿海、沿道を測量、内陸部は空白です。大図(36000分の1)、中図(21万6000分の1)、小図(43万2000分の1)の3種あります。
 (本題の「地図御用所と伊能図」に)忠敬は、文化11年(1814)、江戸の住居を黒江町から八丁堀(亀島町)に移す。黒江町の住まいは狭くて、地図作りの作業をするには窮屈で、引越し先を探していた。
 亀島町の住居は、忠敬の後妻の兄、桑原隆朝の息子の持ち物だった。桑原隆朝は、忠敬が師事した高橋至時を紹介してくれた恩人だった。現在の中央区日本橋茅場町2-12-7、東京メトロ茅場町駅の5番出口前になります。
 八丁堀亀島町一帯は、与力(50人)、同心(200人)の屋敷だった。与力らは土地の一部を医者、易者、絵描きらに貸しており、文化的雰囲気があった。忠敬の住んだ住居跡には、中央区教育委員会が設置した「地図御用所跡」の碑があります。
 地図御用所については、「亀島御用所」という表現はあるが、「地図御用所」という記述は、忠敬の日記や書簡に出てこない。看板もないが、公務(地図をつくる)をする場ということではないだろうか」
 伊能忠敬が中央区で地図をつくり、中央区が終焉の地となったこともあって、この日は寒さ厳しい夜だったが、多くの中央区民らが詰めかけ、熱心に鈴木さんの講演を聞いた。質疑応答では、「忠敬とシーボルト事件の関係は?」といった専門的な質問が出るなど大いに盛り上がった。
 なお、鈴木さんの講演の前に、代表世話人の野口和久さんから、8月24日から31日まで中央区浜町の区立総合センターで「東北復興祈念 完全復元伊能図フロア展」が開催されるので、「都民塾の皆さんも協力してほしい」と呼び掛けた。