*第23回都民塾のご報告

2014年11月27日(木)中央区築地本願寺講堂

第23回都民塾が、平成26年11月27日(木)午後7時から、東京・中央区の築地本願寺2階講堂で、サッカー日本代表選手として1968年のメキシコオリンピックで銅メダルを獲得、熱血サッカー解説でもお馴染みの松本育夫さんを講師に招いて開かれた。
 松本さんは、15歳から50数年間、サッカーに関わってきた。現在、栃木SC(サッカー・クラブ)の取締役。サガン鳥栖監督のあと、栃木SCの監督として10試合で7勝2分け1敗の成績を残して退任。「本日は、五輪、サッカーの話ではなく、サッカーから学んだ人間の生き方について話したい」と語り出した。
 早大に入学、ア式蹴球部に入部。1960年に日本代表に初選出。1963年、早大の26年ぶりの天皇杯制覇に貢献。1964年、東洋工業(現マツダ)へ入社、日本サッカーリーグ(JSL)4連覇の原動力となった。
 「マツダに入社して、最初の配属先で”松本はサッカー馬鹿で仕事はできない”といわれ、当時の会長に直訴して勉強会開催をお願いした。会長からは論語を学び、予測のつかない人生、体力だけでなく気力を持て、漠然とではなく目標を持って、結果を出す行動力が必要なことを教わった」
 1964年の東京五輪日本代表の選には怪我で漏れたが、1968年のメキシコ五輪で、日本代表の銅メダル獲得に貢献。「ドイツから招請されたクラマーコーチの指導が大きかった」と彼について語った。
 「クラマーさんは日本、日本文化を勉強してから指導、教育者だった。自分からやってみせながら基本から教えてくれた。自分の部屋に『ものを見るのは目でなく心で見ろ、聞くときは耳でなく心で聞け』と書いていた。自分もサッカーの指導者になりたいと思った。クラマーさんからは夢を与えてもらった」
 現役引退後、ユース日本代表監督時代は、6時起床・午前練習・午後練習・体育館での夜間練習、1ヶ月間休みなしという熱血指導を行った。ユース監督として指導した選手の36人が監督となった。
 「監督は、1日も欠かさずグランドに出て、叱咤激励を選手に受け止めてもらわなければいけない。私は、厳しい指導をしてきたが、選手一人ひとりの人間として持つ能力を伸ばそうとずっとやってきた」
 1996年にマツダを退社。Jリーグの京都パープルサンガ、川崎フロンターレ監督などを勤める、2002年、長野県の地球環境高等学校の監督になり、7ヶ月の指導で全国高校サッカー大会長野県代表となった。
 「高校生には、親に感謝しているか、と諭した。部員にはガテン系のアルバイトをさせ、朝5時からグランド整備を課した。その上で、厳しい練習をしたが、それに耐えた。目標が結果に結びついた」
 50年のサッカー人生での悲劇は、1983年のつま恋ガス爆発事故。マツダの人材開発担当として事故に遭った(死者14名、重軽傷者28名)。自身も四肢の複雑骨折と全身40パーセントの熱傷を負った。
 「入院中はいろんなことを考えた。言語学者の金田一春彦が、時に苦しく重く起伏のある人生を『春風驟雨』と表現した言葉に琴線が触れた。そして、見舞いに来てくれた先輩から聞いた言葉が忘れられない。『愚か者、弱い者は運を信じ、賢き者、強い者は結果を信じる』で、今も座右の銘としている。人は誰れしも豊かな人生を求める。その人生の中で、なぜ、あの時考えたことを実行に移さなかったのか、失敗してもいい、行動して結果を待つのが人生にとって最も大切なことだと思う」
 講演が終わると、100人近い出席者の間から大きな拍手が巻き起こった。呼びかけ人の立石晴康都議は、「松本さんのお話は感動的で魂を揺さぶられた。みんな元気と勇気をもらったのではないか」と話していた。これが、この日の出席者全員の思いだと思った。