*第49回都民塾のご報告

2017年7月27日(木)中央区築地本願寺講堂

第49回都民塾(呼び掛け人 立石晴康前東京都議会議員)が、平成29年7月27日午後7時から中央区の築地本願寺講堂で開かれた。
          
今回は、江戸きっての老舗、扇子や団扇、和紙の伊場仙14 代目の吉田誠男氏を講師に招き開催した。
 

          
吉田氏は、昭和23年、伊場仙 13 代目吉田源太郎の次男として生まれる。昭和 46 年、早稲田大学理工学部(原子力工学専攻)卒業後、コニカミノルタに入社。昭和51年、伊場仙に入社、昭和56年、同社代表取締役に就任。           
以降、社業の傍ら日本橋の発展に貢献を続けている。江戸開闢以来の老舗の主人だからこそわかる江戸の真実を語る第一人者。平成29年4月、世界都市江戸の誕生を描いた「遠き海原」(サンダーアールラボ刊)を上梓したばかり。
 
吉田氏は、「伊場仙の社史を書くつもりでいたが、小説になってしまった。構想から刊行まで5年かかりました」と、伊場仙創業者と江戸開府、日本橋の歩みなど近刊の小説「遠き海原」のストーリーをからめながら独自の歴史観で講演した。
 


「日本橋は、徳川家康と三河人、そして紅毛人によって拓かれました。紅毛人はオランダ人とイギリス人です。私の祖先(伊場仙の創業者)は、遠州の伊場村(今の浜松市中区東伊場町)の出身で、三河(家康の生まれた)、遠州(家康の城のある)の3万人の人たちとともに家康に連れられて江戸に来ました」
江戸の開発にはオランダが介在した、と話を進めた。「八丁堀は誰が考えたのか?オランダの植民地のバタビア(ジャカルタ)に同じように運河を張り巡らした街があります。オランダ人が大きな軍艦が入らないようにしたのです。アムステルダムの運河と川幅も橋の高さも、人工地盤に松杭を打ち込む工法も同じです」
日本橋について、「どこからも富士山が見えるようにつくられ、大伝馬町が江戸で栄えたメインストリートです。五街道の起点は日本橋と言われているが、慶長年間の地図などによると、甲州街道の起点は半蔵門、日光街道は常盤橋門、東海道など3街道が日本橋となっている」           
 
名主の馬込勘解由に触れ、「遠州浜松の出身で、家康の懐刀だった。家康の外交顧問のイギリス人のウィリアムス・アダムス(三浦按針)の妻、お雪が勘解由の娘という関係もあり、2人とも家康に気に入れられ、江戸開発に尽力した」
オランダが家康に接近した理由を、「オランダは、世界征服のため日本の銀が欲しかった。ポルトガル・スペインの侵略から日本を守ってやる、を名目に銀の独占購入権を獲得。島原の乱の鎮圧には戦略を教え、軍艦も提供したほどだ」
最後に三河人の江戸での役割を、「諜報活動、処刑の執行、橋の架け替えなどに従事した。その対価として商権の優先権や犯罪等の取締りの免罪があった。伊場仙は、浮世絵を出版して幕府の有力者を失脚させる、なんてこともやった」
事実は小説より奇なり、というが、吉田さんのロマンあふれた講演は、地元・日本橋が舞台とあってみんな、真剣な表情で聞き入っていた。講演前に立石前都議が先の都議選を総括、「今後とも政治活動を続ける」と言明した。