第36回アジア太平洋経済研究会海外視察:台湾視察

平成29年11月5日(日)~11月9日(木)

第36回アジア太平洋経済研究会海外視察、昨年のバルト三国・フィンランドに引き続き、今年は台湾を視察いたしました。

作家の平野久美子氏に都民塾で「世界で活躍した日本人」というテーマでご講演いただいた際にも紹介された、八田與一ゆかりの地を訪ねました。

また、台南市の荘先生とのご縁で、李孟諺台南市長をはじめ台南市議会の皆様にも大変歓迎していただきました。

同行取材してくれた都民塾代表世話人の野口和久氏に、視察の内容をまとめていただいたので掲載いたします。

 

 

 

 

 

 

 

台湾視察記

2017.11.22 野口 和久

 前東京都議会議員、立石晴康さんの主宰するアジア太平洋経済研究会の「台湾視察ツアー」に同行した。2017年11月5日(日)から11月9日(木)まで4泊5日の日程で30人が参加、台南など台湾南部を中心に見て巡った。神木の阿里山の見学、台南市民との交流、「台湾水利の父」といわれる八田與一ゆかりの地訪問、カラスミ、小籠包などの台湾グルメ…「麗しの島」を満喫した。僕にとっては、大好きな台湾映画2作品(『冬冬(トントン)の夏休み』と『非情城市』=ともに侯孝賢(ホウシャンシェン)監督)のロケ地を訪れるという、もうひとつの楽しみがあった。そんなこんな台湾視察をまとめた。


【11月5日(日)】

 11月5日午前7時15分、東京・羽田空港国際線ターミナルに集合。会議室で結団式、立石団長の挨拶、参加者の自己紹介。この視察旅行で欠かせなくなった団長夫人手作りの五目寿司をいただきながら旅の安全と結束を誓った。

 羽田発9時20分の全日空機で空路、台湾へ。12時30分、予定よりやや早く、台北・松山空港に到着。現地ガイドの林貞純さんが出迎え、専用バスで台北駅へ。台湾高速鉄道(台湾新幹線)で南部の都市、嘉義市へ向かう。

 台湾高速鉄道は、台北市・南港駅から高雄市・左営駅までの345kmを最高速度300km/h、ノンストップ便では約1時間30分で結ぶ。これまで同区間は、最速の在来線特急で3時間59分かかった。

 2007年に開業、総事業費は4,806億台湾ドル(約1兆8千億円)。日本の新幹線の車両技術を輸出・現地導入した初めてのケースだが、分岐器はドイツ製、列車無線はフランス製、車輌などは日本製という、日欧混在システムだという。

 台北発午後2時46分の台湾新幹線に乗車。日本でいうグリーン車だったので、女性パーサーが座席までコーヒーやパンなどを持って来てくれるサービスがついた。左党組は、台北駅で購入したビールでのどを潤していた。

 嘉義駅到着は、午後4時13分、約1時間半の台湾新幹線の旅は快適だった。台北は「亜熱帯」だが、嘉義は「熱帯」なので暑く感じた。嘉義で思い出すのは、嘉義農林学校。日本統治時代の夏の甲子園(1931年)で準優勝に輝いた。2014年に映画化された。

 嘉義農林野球部は、原住民、中華系住民、日本人の混成チーム。当初は弱小チームだったが、元松山商業(愛媛県)監督の近藤兵太郎氏の指導で強豪校になった。嘉義農林は、2000年に大学に昇格、国立嘉義大学になっているという。

 この台北から嘉義に向かう途中に、『冬冬の夏休み』のロケ地があった。冬冬が夏休みを過ごす銅鑼(トンロウ)。台北と嘉義のほぼ中間にある小さな田舎町。残念ながら台湾新幹線は通っていない。台北駅から台中線(山線)経由の特急で苗栗駅で普通列車に乗り換え銅鑼駅で降りる。

 台湾新幹線の車中から、「銅鑼はこのあたりか」と目を凝らした。一帯は、『冬冬の夏休み』に出てくる風景と同じような田園が広がっていた。映画は、冬冬と妹の婷婷(ティンティン)が開業医をしている祖父の家で過ごす夏休みが描かれている。

 田舎の少年たちと川遊びをしたり、孫思いの祖父との交流、2人組の強盗事件、恋人を妊娠させてしまった叔父さん、少し頭は弱いが婷婷を助けてくれた寒子(ハンズ)との出会い…幼い兄妹がひと夏に体験した思い出の詰まった佳作。

 映画評論家の川本三郎が『銀幕風景』(新書館)で描いている。<次々に事件が起こるが、田舎の風景がそれを優しく包む。明るい陽光と微風、セミの声、夕立と雷雨、大きなクスの木…こんな村で夏休みを過ごせた少年は幸せだ>。

 われわれは、嘉義駅で下車して、専用バスで2時間半の15の山々から成る国家風景区(国定公園)阿里山へ。日の出・夕霞・雲海・鉄道・神木の「五大奇観」が有名。また、3・4月には桜が満開となり「桜の名所」としても知られる。

 ホテルは山中にあり、大型バスは入れず、小型バスに乗り換えて10分程度でホテルに到着。台湾で初めての夕食は、豚肉炒め、鶉の燻製などの郷土料理。紹興酒を飲みながらの食事を期待したが、紹興酒は置いておらず台湾ビールで乾杯、会食となった。風呂のお湯が冷たいなど山小屋風ホテルという感じだった。


【11月6日(月)】

 阿里山のホテルは、標高2000メートル。気温は、10度を切っていたが予想したほど寒くなかった。阿里山観光の目玉のひとつが、祝山から台湾最高峰の玉山(日本統治時は、新高山と呼んだ)山系から顔を出す日の出の鑑賞。

 祝山には、海抜2500メートルの登山鉄道として有名な森林鉄道に乗って向かう。われわれの出発は「午前4時」というので、到着後の疲れもあり希望者6人が参加。「日の出は、見えなかったが、朝焼けが見事だった」と参加者の1人。

 ホテルで朝食後、全員で、「阿里山国家森林保護区」の見学に向かう。熱帯・暖帯・温帯の植物が見られたが、樹齢1000年を超えるタイワンヒノキ(紅檜)が数多く自生しており、その巨大さに気圧された。

 阿里山のタイワンヒノキは、靖国神社の神門や橿原神宮の神門と外拝殿、東大寺大仏殿の垂木など日本の神社仏閣で使われている。明治神宮の大鳥居にも使われていたが、1966年の落雷で破損、大宮氷川神社に移築されたとか。

 阿里山では、中国大陸からの観光客の姿が目立った。赤い帽子に民族衣装の女性を見かけたが、「あの女性は、中国大陸の少数民族です。大陸からの観光客は一時は年間400万人を数えましたが現在は減っています」とガイド。

 阿里山視察を終えたあと、専用バスに乗って、嘉義で昼食を取ったあと、「台湾の京都」といわれる台南市へ。台湾で最も早くに開けた古都で、寺院や廟など史跡が数多く点在、日本統治時代の建物も多く残っていた。

 台南に到着。立石団長が手配してくれていた李孟・台南市長と面談のため台南市役所へ。われわれは、6階の会議室に案内された。この面談は、立石団長が東京で交流のある台湾人留学生の叔母さんが荘玉珠・台南市議会議員だったことから実現した。

 李市長は、「ようこそ、台南へ。190万人の市民を代表して皆さんを歓迎したい。台南には、日本の統治時代の建物、台湾水利の父といわれる八田與一の銅像や記念公園があります。文化だけでなくグルメでも有名です。昨年の地震では日本から多くの援助金をいただきありがとうございました。台南を満喫し、いい思い出をつくってほしい」と挨拶。

 立石団長は、「東日本大震災では、最初に多大な援助金をいただき、富士山の世界遺産登録の際には玉山という富士山を越える山があるにもかかわらず応援してくれたことに感謝したい。台湾は私の祖父が高雄で仕事をしていた思い出の地でもあります。台南の素晴らしさは想像通りです。益々の発展を願っています」と応えた。

 荘玉珠議員は、「台南は人情が豊かで美味しい食べ物も多く、そしてのんびりした素敵な街です。立石先生の政治に取り組む真面目さは勉強になりました。中央区との交流も深めたいので、今後ともよろしくお願いします」と述べた。

 市役所会議室から市議会庁舎へ移動。ここでは、郭信良・台南市議会副議長、荘玉珠・台南市議会議員、蔡旺珠・台南市議会議員、林金李・副秘書長らが出迎え、山盛りのフルーツをご馳走になった。

 夕食は、荘玉珠議員の招待で、市内の台湾料理店で会食。荘議員の親戚や関係者が10人近く参加して賑やかな懇談となった。僕のテーブルに、偶然にも早大OB3人が並んでだ。

 すると、同席の陳さんが「うちの息子は早大理工学部卒で台南で働いている」と話し、息子の陳志維さんに電話して店に呼び出しだ。3人の早大OBらは、息子の陳さんを引っ張り出して二次会へと繰り出した。


【11月7日(火)】

 午前中は、台南市内を視察。台南は1624年からのオランダによる台湾統治の中心地だった。台湾最古の建造物といわれる要塞「赤嵌楼」などを視察した。「熱帯」の台南は気温31度という暑さ、汗をかきながらの見学となった。

 台南の中心部にある「赤嵌楼」。1653年、台湾南部を占領したオランダ人が建設し、「プロヴィンティア城」と呼ばれた。その後、鄭成功が、中華風楼閣に改築した。赤レンガを積み上げ、堅固に造られた建物で、日本統治時代は陸軍病院が置かれた。

 浄瑠璃「国姓爺合戦」で有名な鄭成功が祀られた廟の「延平郡王祠」と、鄭成功の息子である鄭経が創建した台湾最古の孔子廟の「台南孔子廟」を見て回り、台湾の歴史を深く味わった。

 このあと、専用バスで、八田與一ゆかりの地へ。八田は、日本よりも、日本統治時代の台湾で農業水利事業で貢献したことで、台湾での知名度のほうが高い。台湾では、教科書やアニメで八田の業績を紹介、アニメは専用バスの車中で見た。

 八田は、1886年、石川県河北郡花園村(現在は金沢市)に生まれる。石川県立第一中学、旧制四高を経て、1910年、東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として奉職。

 「嘉南大圳」と呼ばれる水路を完成させた。1920年から10年後の完成まで工事を指揮した。総工費5,400万円で、満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万㎥の「烏山頭ダム」が完成。水路は、嘉南平野一帯に16,000kmにわたってはりめぐらされた。

 八田は、コンクリートをほとんど使用しない「セミ・ハイドロリックフィル工法」を使った。ダム内に土砂が溜まりにくくなっており、これと同時期に作られたダムが機能不全に陥っていく中、烏山頭ダムは、しっかりと稼動している。

 31歳のときに故郷金沢の開業医の長女・外代樹(とよき)(当時16歳)と結婚、8人の子をもうけた。八田夫妻は、不運な最期を遂げた。夫は南方へ向かう船が米潜水艦の攻撃を受けて死亡。妻は終戦直後、夫が造ったダムに身を投げた。

 このエピソードを、ガイドが語った際、「わたしには、とても、そうはできないわ」と目を潤ませる女性参加者がいた。

 現在、烏山頭ダム一帯は、八田與一記念公園になっている。八田を顕彰する記念館も併設、八田一家の住んだ官舎も当時の姿に復元されている。妻の外代樹も顕彰の対象となり、2013年、銅像が建立された。

 烏山頭ダム傍にある八田の銅像はダム完成後の1931年に作られた。立像でなく、烏山頭ダム工事中に見かけられた八田が困難に一人熟考し苦悩する様子を模したユニークな銅像。八田の命日である5月8日には慰霊祭が行われている。

 2017年4月、銅像の首から上が切断された。中華統一促進党に所属する元台北市議会議員の仕業で、同時期に台湾各所で頻発していた蒋介石像に対する悪戯への反発心が八田に向けられたという。八田の命日までに修復された。

 夕食は、前夜ご馳走になった荘玉珠議員を、われわれが招待してリターンバンケット。台湾の名産、カラスミも出され、みんな満足、満足。顔なじみなった荘議員の関係者も出席、宴は盛り上がった。

 台南で宿泊(2日間)のシャングリラホテルは、中央が高い吹き抜けになった高層の豪華ホテル。「前夜の阿里山はホテルだったのか。これまでの立石さんの海外視察でもトップランク」と参加者のひとり


【11月8日(水)】

 ホテルで朝食の後、専用バスで台南駅へ。午前9時13分発の台湾新幹線で台北に向かう。10時59分に到着、すぐに専用バスに乗って、みんなが楽しみにしていた小籠包の名店、鼎泰豐(ディンタイフォン)へ。

 行列待ちで有名だが、ガイドの予約が効いたようで数分間の行列で済んだ。前菜から炒飯までのコース料理だったが、モチモチの皮、たっぷりのスープ、ジューシーな肉が入った小籠包はビールに合った。1993年の米誌「世界の人気レストラン10店」の1つにも選ばれたそうだが、それほどでも、という印象。

 昼食の後、専用バスで十分へ。ここでは、「天燈(テンダン)」と呼ばれる油紙と竹でつくられた直径1㍍ほどの気球を空に飛ばす体験に挑んだ。雨の中、テントの中で、天燈に、それぞれ願い事を筆で書いて四人一組で雨空に飛ばした。

 このあと、映画『非情城市』の舞台として知られる九份へ。九份も雨だった。

 台北北部の山間に位置し、海を一望できる風光明媚な街並みが広がる。かつては金鉱発掘の街として栄えてが、ゴールドラッシュが終わってさびれた。

 映画の舞台となったことから脚光を浴び、観光地になった。石段や狭い路地、赤い提灯が特徴的なレトロな雰囲気を醸し出す。しかし、横殴りの雨で、上着だけでなくズボンも靴もビショビショ。ノスタルジックな街並みは雨に霞んだ。

 『非情城市』は、第2次世界大戦終結後、激動の台湾を描いた。歴史に翻弄される家族の愛と哀しみの年代記。祖国復帰の喜びもつかの間、港町・基隆で酒屋を営む林阿祿の一家は、外省人の横暴に苦しめられていた。

 四男でトニー・レオン演じる耳の聞こえない文清は、仲間と共に新しい台湾の姿を夢見つつ、看護婦の寛美とささやかな恋を育んでいた。1947年2月27日、台北でヤミ煙草取締りの騒動を発端として、翌日に「二・二八事件」が勃発。

 流入する外省人と本省人の争いが台湾全土で巻き起こる。文清ら市民や学生は、中国本土からやってきた国民党兵士の暴力に抵抗する。しかし、国民党の軍隊の弾圧に敗北、文清の友人たちは次々と逮捕され処刑される。

 映画のクライマックスを、川本三郎がDVDの解説に描く。<彼らが処刑されてゆくところがこの映画のクライマックスになっている。看守に呼ばれた青年たちは毅然として立ち上がり、仲間たちと無言で別れの挨拶を交わし、刑場へと去ってゆく。この時、彼らは、彼ら自身の歌ではなく、日本の流行歌「幌馬車の唄」を歌う。新しい理想の国がない彼らには、古い旧宗主国の歌を歌うしかないのである。その悲しみ--->

 夕食は、台北市内の本格的な台湾料理店「湖桂」で。カラスミに加え、九州では「幻の高級魚」といわれるアラ(九州ではクエと呼ぶ)の餡かけの唐揚げが出た。台湾料理と紹興酒が“相思相愛”ということを実感。食も酒も進んで台湾最後の夜は更けていった。


【11月9日(木)】

 台北のホテルは、日本のホテルオークラが経営する「大倉久和大飯店」。部屋が大きな豪華ホテル、ここのパイナップルケーキは人気で、みんな買い求めていた。台北市は人口260万人を超えるアジア屈指の世界都市。朝食の後、中国文化と芸術の殿堂「国立故宮博物院」を見学した。

 故宮博物院は、世界一の中国美術工芸コレクションとして名高い。フランスのルーブル、アメリカのメトロポリタン、ロシアのエルミタージュと並んで世界四大博物館の1つにも数えられている。

 所蔵する美術品の大半は中国歴代の王朝から代々受け継がれてきた逸品。かつては北京の故宮に所蔵されていたものだが、国共内戦の戦火による破壊から守るため、1949年に蒋介石が軍艦を動員して中国大陸から台湾へと運んだ。

 70万点近くの収蔵品のうち、常時展示している品は、6000~8000点。特に有名な宝物数百点を除いては、3~6カ月おきに、展示品を入れ替えている。すべてを見て回るには、10年以上はかかるという。

 玉器は8000年前のものから、5500年前の新石器時代の翡翠の彫り物、4400年前の陶器、3300年前の青銅器・象形文字、2200年前の秦の始皇帝から、隋、唐、宋、元、明、清の歴代宮廷の収蔵文物…その内容と数に圧倒された。

 最も有名な展示物2つを行列に混じって見学。ひとつは、2色に分離した翡翠を清廉潔白を表す白菜に模した「翠玉白菜」。天然の翡翠と玉の混ざり具合を巧みに利用した繊細な彫刻で、翠玉巧彫の最高傑作。もうひとつが、3層になっている石に加工を施した「肉形石」。おいしそうな赤身と脂身の混じった「肉形石」は、豚の角煮にそっくりだった。

 故宮見学の後、免税店に立ち寄り台北・松山空港へ。午後1時30分発の全日空機で帰国の途へ。午後5時30分、羽田空港に到着、全員元気に帰国した。


【おわりに】

 立石さんの海外視察では、現地ガイドが、その国の国情(政治状況)を話すことが多かった。今回のガイドの林さんは、国情はあまり語らず、観光案内に終始した。「OKね」が口癖で、話の最後は、いつもこれだった。元気の良さ、明るさは好感持てた。

 さて、台湾に行く前に読んだ『台湾』(伊藤潔著、中公新書、1993年初版)は、台湾の現代史、民主化の歩みを記している。<1970年代に入り、二・二八事件以後に成長した台湾人の指導者は民主化運動を推進した>とこう記す。

 <86年、戦後初めての野党「民主進歩党」が結成される。民主化運動と米国の圧力により、87年、国民党政権は38年間施行してきた戒厳令を解除した。88年、最高権力者の蒋経国総統・国民党主席が死去、副総統の李登輝が総統に昇格。

 台湾史上はじめて、台湾人が総統・国家元首についた。李登輝総統は、就任早々、政治犯の一部を減刑して釈放、90年に軍を掌握、権力を握り民主化改革を進める。

 92年の台湾史上初の総選挙で、民進党は52議席を占め、国民党は103議席にとどまり敗北宣言。<李登輝が総統・党主席に就任して以来、国民党政権も国民党も「台湾化」の速度を強めている>

 93年初版なので、ここまでだった。このあと、李登輝総統が2000年に退き、総統は、陳水扁(民主進歩党)、馬英九(国民党)、2016年から蔡英文(民主進歩党)と政権交代が繰り返された。国民、民進両党は、大陸との関係は異なるが、政情は安定しているようにみえる。

 「二・二八事件」にも触れている。<知識人が粛清の標的だっただけに、台湾人の指導者のほとんどが殺害され、または検挙されて、長期にわたって投獄されたため、その後長らく台湾社会に指導者の空白が生じている>。

 蔡英文総統は、今年2月、海外に住む二・二八事件の被害者遺族らと面会した。そこで誤りを認め、謝罪し、被害者の名誉を回復して政府による真相調査や情報の公開を約束した。

 同著は、第2次世界大戦後にやってきた外省人=国民党について、こう書いている。<当時、台湾人は、「狗去猪来(犬去りて、豚来たる)」と嘆いた>。統治時代の日本人はうるさくて番犬として役立ったが、国民党はただ貪り食うのみで役立たない、というわけだ。

 日本人として胸が痛む挿話だが、こんな一説に少し救われる思いがした。<「二・二八事件」をはじめ、国民党政権が恣意的に歪めてきた歴史の書き換えも始まろうとしている。いずれ日本統治の台湾史における位置づけも変わり、「植民地下の近代化」にも光があてられるであろう>

(文中一部敬称略)