都民塾

都民塾だより No.78

 第78回都民塾(呼び掛け人 立石晴康前東京都議会議員)が、令和二年1月21日(火)午後6時半から中央区の築地本願寺第一伝道会館内の振風道場で開かれた。

 年初の都民塾にお迎えしたのは、神奈川県横須賀市にある浄土寺ご住職・逸見道郎氏。同寺は江戸時代初期、徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・貿易家のウィリアム・アダムズの菩提寺で、アダムズは三浦按針(みうら・あんじん)の名でも知られる。逸見氏は「いまなぜ青い目のサムライ 三浦按針なのか」と題し講演をしてくださった。

 現役の僧侶だけあり逸見氏は、よく通る声と理路整然とした話しぶり、加えて飾らない語り口で会場を魅了した。自己紹介を兼ねた按針との出遭いも地元・横須賀の活性化のためのコンテンツを探していたら、何とそこに「お墓があった!」と屈託がない。

 この講演が今年最初なのには理由がある。混迷を増す2020年の世界に生きる私たちに逸見氏は、歴史に学ぶことの大切さ、とりわけ日本を世界情勢の中で捉えることの重要性を伝えてくれた。年代や人名の丸暗記、出来事をデータとしか見ない「歴史」では、歴史が教訓とならないばかりか、その時代の人々の息遣いも感じられないからである。

 そこで逸見氏は按針が生まれた1564年という年は、あのシェイクスピアやガリレオ・ガリレイが生まれた年だとまず会場を驚かせる。時は二世紀半ほど続く大航海時代の中頃。主役はポルトガルとスペインで、アフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海を行い、到達した地で略奪や搾取の限りを尽くした。これにイギリス、オランダも続く。

 按針ことイギリス人ウィリアム・アダムズは同時代人の例に漏れず、不屈の精神と才覚、そして幸運に恵まれれば、貧しい下層階級であっても一夜にして富と名声が得られるとして、極東を目指す船団に加わる。辛酸を舐めた航海の末、1600年に大分県臼杵市の黒島に漂着。そこで待っていたのは、徳川家康との運命の出会いだった。

 家康は按針から世界はカトリックとプロテスタントに二分され、植民地の争奪戦を繰り広げていること。キリスト教がその先兵の役割を果たしていることを知る。これを可能にしたのが、外洋航海が可能な頑丈な帆船であり、羅針盤を含む航海術の発達、そして何より圧倒的な武器弾薬の威力という当時の先端技術の数々であった。

 そこで政治家・家康は、按針の技術を利用して豊臣家を滅ぼし、徳川幕府を樹立する。内政には「武威」を誇示し、外交には「情報」を活用することで列強の植民地政策から日本を守り、太平の世の礎をつくったのである。当時のメガポリスである江戸は「家康と三河武士、そして紅毛人によって建設された」と言われるが、この紅毛人の一人こそ按針であった。

 こうした功績を認め家康は、按針に知行を与え旗本とする。青い目のサムライの誕生である。現在の日本橋室町に屋敷を構えたことから、その地が按針町と呼ばれる。按針は授けられた領地・横須賀から魚を運ばせ商いをさせ、按針町は魚河岸として繁盛した。

 新興都市・江戸はこうして全国の人々を引きつける魅力と、受け入れるインフラが整備され活況を呈した。逸見氏の講演は、まるでそこにいたかのように人々の営みを活写。浮世絵など江戸時代に花開いた文化が、世界を驚嘆させた事実を、正に実感させてくれたのである。

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