NO.2 都政の裏表
令和元年12月5日 立石晴康
師走に入り、我が家の畳の表替えをしてくれるよういつもの畳屋さんに依頼しました。亡くなった父が新年を迎える作法として畳を毎年入れ替えていました。また、何枚かの我が家と事務所の障子も表具屋さんにお願いして張り替えました。
いつとはなしに私も75歳まで都議会議員として現職を務めさせていただきました。39歳から75歳まで、36年間、1度の落選を経験して、32年間都議会議員の職にありました。
この間、6人の東京都知事と共に都政の裏表を経験し、激動の時代を過ごしてまいりました。そんな珍しい都議会議員は多分私が初めてだろうと思っております。
さて先般、某大手商社のOB・OG会に講師として招かれ、90分間、都政の裏表と6人の知事とのエピソードを喋る機会がありました。そこで都議会図書館に私の本会議と委員会での発言集を寄せていただいて、36年間の資料を基に自分の天職をまとめて講演させていただきました。
自分自身にとっては淡々と思い出すままに話しましたが、飯田橋にほど近い本社のある202号会議室の、200人ほどの会場から、割れんばかりの拍手が起こりました。
私は御礼を申し上げ、ご清聴を感謝しますと結びながら、感動をいたしました。これはいったい何のことなのだろうかと思ったのであります。このワクワク感こそ、私が少年時代から志した政治家という天職としての職業だったのだと思いました。
天職を天職としてきた祖母(故田中トク 日本橋大伝馬町在住)。晴康は果報者、果報者と育ててくれた祖母を懐かしく思い出しています。
少年時代の私は、少しも果報者とは思っておらず、右手をポケットに入れ、欲求不満満々の少年でした。その祖母が、いつもにこにこと、晴康は果報者、果報者と言っていることを、立ち止まって摩訶不思議な事を言うおばあちゃんだと思いました。でも大好きなおばあちゃんでした。
話は変わりますが、文科省の47都道府県の小中学生学業成績の日本一は、ここ数年私の知る限り、秋田県でした。その秋田県で、一番の市町村は、秋田で2番目に人口の少ない約2,500人の東成瀬村とのことでした。
でも小学校の図書室は他市町村の平均の4倍の図書費を投入しているとのことでした。この町が日本一の秋田県の日本一の市町村になるということは、日本で一番の教育自治体となります。難関校ラサールのある鹿児島でもなく、兵庫の灘高でもなく、他の有名都市の難関校を抱える県ではないことを知り、不思議に思いました。でもたった一つ違うことは、その東成瀬村は7割が三世代同居の家庭環境にあるということでした。と、同時に愛郷心のある子どもが育つ町だと、その町の教育長が語っていました。*
師走に入り、いつとはなしに祖母や父から、家庭からの作法に継承している自分自身を見つめて可笑しくなりました。
*(東成瀬村の話は致知1月号より参照いたしました。)