日本橋徒然草

NO.12 日本橋と都電

令和2年8月30日 立石晴康

 8月の終わりの猛暑の中で、日本橋に買い物に出掛けました。

 昔は都民の足として、41系統もの都電が縦横無尽に都内を走っていました。例えば日本橋の蛎殻町水天宮前から都12系統新宿区角筈行き(現在の新宿区西新宿、歌舞伎町及び新宿の一部)がありました。

 市ヶ谷~飯田橋を通って新宿区牛込若松町(今の東京女子医大病院の傍)を通っていました。私はその牛込若松町で降り、子どもの頃、右の手が不自由だったため、母に連れられて、今の国立医療センター(前国立第一病院)に通入院していました。

 その後、自動車交通量が増えて、昭和42年から47年までに、荒川線のみを残して都電が廃止になりました。

 この都電のレールを乗せていた敷石が、日本橋の中央通りに形を変えて歩道の敷石になりました。

 当時を振り返ると、区役所の商工課長や、日本橋の大旦那衆、名誉都民であり明治座の社長であった三田政吉氏らの尽力で、日本橋三越前や日本橋高島屋前などの、あの立派な敷石が完成いたしました。

 お店の間口に応じて、それぞれの老舗が応分の負担をして、敷石が出来上がったと、三田政吉会長翁から聞いたことがあります。またそのエピソードとして、老舗の旦那方の中で、1軒だけ反対をして、応分の費用負担を拒んだお店があったそうです。

 それは、一体どこだろうと思って、私は興味本位で行ったり来たりいたしましたら、あ、なるほど、ここだな、と。京橋のある一角がきちんと敷石がカッティングして置かれていないのがありました。ああここだな。それは言葉は悪いのですが、くずの敷石が貼ってあるので、半世紀近く過ぎた今でもすぐに気付きます。

 今は便利な世の中で、都営線が4路線、東京メトロが9路線、都心から郊外、郊外から都心へと走っています。

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