日本橋徒然草

NO.24 弟

令和3年10月 立石晴康

 9月21日に、電話がけたたましいベルの音を響かせました。弟の夫人敏子さんからの電話でした。午後3時35分、純稔さんが旅立ちました、との報せでした。私は頭が真っ白になり、うーともぎゃーとも訳の分からぬ言葉を発して号泣しました。姉が2人、妹・弟の5人兄弟です。その一番下のたった一人の弟が亡くなったという報せです。

 8月に、前から知らされていた前立腺がんが飛び火をして、体中に痛い痛いと入退院を繰り返していました。

 私と弟は、6歳年の間隔がありますが、一卵性双生児の様に子どもの頃からよくケンカもしましたが、仲良く5人兄弟で育ちました。

 小学校は日本橋の久松小学校でした。私が5年・6年と担任をしてくれた野口茂先生が恩師です。私が小学校を卒業すると、弟が新1年生として野口茂先生に6年生まで担任・指導をしていただきました。そんなわけでいつも先生は、兄の私と弟を比較してくれていました。兄の私はクラス会の会長としてクラスのまとめ役をいたしました。一方弟の純稔は、体育・家庭科に至る国語・算数・理科・社会の全教科が一番で、昭和22年生まれの団塊の世代の中で、学校一番の成績で久松小学校を卒業しましたと、野口茂先生が述懐をしていました。晴康君より純稔君の方がずっと成績がいいよといつも言われていたので、私は少々辟易していました。しかし優しい先生は、すぐにフォローをして、晴康君は指導力と統率力が人一倍あるよと褒めてくれました。

 弟は大学を卒業すると、ホテル学校に学び、ホテルマンになりたいと大きな希望を持っていました。やがて卒業と同時に帝国ホテルに入社し、同期の中で初めにフロントクラークに立ちました。その理由をホテル学校の仲間に言わせると、フランス語が得意だったのでフロントに回された、と語っていました。

 その後、数年間帝国ホテルで仕事をしていましたが、私が区議会議員になり議会活動が忙しくなったので、家業の建設業が困る為、父が純稔に将来社長を任すべく、家業に戻るように懇願をしていました。まったく異なる仕事でしたが、弟は仕事を器用にこなして自営業も充実・発展し、得意先も増え、順調な滑り出しをしていました。その後父が体調を崩して亡くなり、私が都議会議員になったので、家業を手伝うことは困難となり、弟が一人で経営をしていました。

 同時に、兄の選挙戦略・戦術も事実上一人で練り、私にアドバイスをするという状況でした。私も弟に甘えてあれこれ相談をして、時には激しく口論になった事もありました。

 随分長いこと迷惑をかけたなあと思いつつ、中央区は一人区で大変な激戦区でしたが、私は都議会議員を8期32年間、1回の落選はいたしましたが、75歳まで現役を勤めることができました。

 都議会では10年、20年、30年、在職の記念に表彰状を全会派一致で表彰する習わしがあります。私は在職30年記念を受賞した際に、議場で受賞のスピーチを許されました。私がノー原稿でスピーチをして正面の傍聴席を見ると、大学のゼミの後輩石塚君と弟の純稔が、嬉しそうに感激をして傍聴してくれていました。僕は一瞬息をのみ、思いが一気にこみ上げてきました。少年の日の純なる願いで、いつか大人になったら世の為人の為、苦しんでいる人たちのために役に立つ人間になりたいと願っていました。そんな思いを傍聴席の2人を見た時、感激でいっぱいになりました。終わって議場を出ると、2人が良いスピーチだったよと褒めてくれました。

 その議会は去りましたが、77歳の時、令和元年4月21日に旭日中綬章を受賞して、家内と共に二重橋を渡りました。天皇陛下からお言葉をいただき、感激を覚えました。それもこれも、究極弟立石純稔の演出・プロデュースであり、この賞は純稔がもらったものだと思いました。お祝いをした時、550名を超えるお祝いのお客様で満席になった会場を、弟は少し離れて静かに見ていました。

 弟は妻と3人の子どもたちに恵まれました。息子2人は小中高大附属の学校に入り、大学を卒業すると長男は三菱商事に入社し、次男はNYのシティバンクに就職し、帰国すると英語学習に特化したアプリケーションの開発を行う会社を立ち上げ、青山で40人程度の社員を雇用しているとスマホに書いてありました。娘は音楽を通じて知り合った友人と結婚し、2人の子どもに恵まれました。

 弟は20年程前から浄土真宗の学校で勉強し、京都西本願寺の教師試験を受け、僧侶の資格を持ち、明石町の自宅にほど近い築地本願寺で熱心に聴聞をしていました。

 築地本願寺に戻ってきた弟を出迎えた私は思わず、純ちゃん、純ちゃん、お帰り。素晴らしい人生を生き抜いた。素晴らしい人たちに恵まれて幸せな人生を送ったなあ。涙声で出迎えました。9月のコロナ禍ゆえ、夫人と子どもたち、兄弟で静かに本願寺のブチストホールで通夜・葬儀式をいたしました。本山の石上智康宗務総長や、安永幽玄宗務長の読経が響く中、お浄土に旅立っていきました。

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