日本橋徒然草

NO.25 文化の日

令和3年11月 立石晴康

 11月初めから1週間ほど前、秋は深まり、一雨ごとに温度が下がっていきました。11月3日は例年の文化の日のように真っ青な青空で、まさに文化の日らしい日和でした。久しぶりに東日本橋の我が家から有楽町付近に出て買い物をしました。

 私が初めて都議会議員になった年、昭和56年7月にはこの有楽町に都議会議事堂がありました。当時の都庁はこの有楽町駅の北と南にJRの鉄道を挟んで乱雑に本館・別館・1号館~3号館など庁舎が混在していました。委員会や本会議が開かれるたびに、100人を超える議員や理事者の皆さんが関係資料を風呂敷に入れて持ち歩く姿は異様な風景でした。

 10年後の新都庁舎は新宿の現在地に移転し、建築家丹下健三先生の手で設計され、新庁舎ができました。知事は鈴木俊一都知事の時代でした。私はもちろん歴史ある都庁が新宿に移転することに大反対で、下町方面の議員を中心とした反対派グループの中心となり、都議会新宿移転反対の声を上げていました。地方自治法ではいわゆる主たる事務所の移転は議会の3分の2の特別議決を必要とする、とあります。したがって127名の定数を持つ都議会の3分の2の賛成議決はなかなか容易ならざる議案でした。

 大騒動の末に、三多摩を含む東京のほぼ中心に都庁が移転することを決めて、今の西新宿(元の淀橋浄水場跡地)にこの新宿新都庁舎が出来上がりました。

 私の選挙区は中央区選出1名の都議会議員ですので、当然旧都庁舎のあった有楽町派のグループになるということは必然的な立場でした。あれから40年が過ぎて、都議会議員を辞してから4年が経ち、鳥瞰してみますと、西新宿は都庁舎の位置としてふさわしいと思うようになりました。日本の首都東京、その大都庁舎が何とも座り心地が良くこの地に鎮座しているのを、つくづく事件の歴史の渦中にあった者が近視眼的にいかになっているのかを再確認された、有楽町のデパートの祭日でした。

 さて、この旧都庁舎のあった有楽町都庁舎は今どうなっているか、この目で確認するべく、旧都庁舎のあった東京駅南口の付近に私は立ってみました。ちょうど私の立っている位置に江戸東京を開いた太田道灌の銅像が立っていました。今は大東京に最も数少ない国際会議場として立派にその存在感を表していました。

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